京一中77年の歩み 明治3年(1870)~昭和23年(1948)

年号所在地本校史
明治3年
(1870)
二条城北
所司代邸
12月7日 京都府中学開校(わが国最初の中学校)
生徒数は、開校時:60名、翌年には316名
明治6年
(1873)
旧守護職邸
現府庁の地
2月27日 市郡小学校取締所と改称
6月 教場を現府庁の位置に集め開業
明治9年
(1876)
旧守護職邸
現府庁の地
4月 府、小学校取締所を仮中学と改称
明治12年
(1879)
旧守護職邸
現府庁の地
4月4日 仮中学を京都府中学と改称
明治13年
(1880)
旧守護職邸
現府庁の地
4月 第一回卒業生八名 城北同窓会創立
7月 中学から今立吐酔を上京させて理科学器械および書籍を購入させたいと願い出る
明治15年
(1882)
旧守護職邸
現府庁の地
5月 今立吐酔、初代校長となる
6月 中学備付の理化学器械を博覧会に陳列した(ジャイロスコープ)
7月 制度の改正により初等科(4年制)と称し、その上に高等科(2年制)を設けた
京都中学同窓会創立、会頭槙村京都府知事、副会頭今立校長、幹事田中藤五郎
明治17年
(1884)
旧守護職邸
現府庁の地
9月1日 京都府京都中学校と改称
明治18年
(1885)
寺町丸太町上
現鴨沂高校の地
5月 寺町新校舎に移転
明治20年
(1887)
寺町丸太町上ル
現鴨沂高校の地
1月19日 京都府尋常中学校と改称
明治21年
(1888)
新町出水上ル
現中立署
4月10日 府師範学校と校舎を交換、新町出水上ルに移転
7月9日 徳永(後に清沢と改姓)満之第2代校長となる
明治23年
(1890)
新町出水上ル
現中立署
4月 図書館を設置
7月 徳永校長退任、稲葉昌丸第3代校長に就任
明治26年
(1893)
新町出水上ル
現中立署
3月22日 本庄太一郎第4代校長に就任
明治27年
(1894)
吉田近衛町
現近衛中学校
7月19日〜22日 第一回目の琵琶湖周航を行なう。
明治30年
(1897)
吉田近衛町
現近衛中学校
8月 津市の海岸にて観海流の合宿練習を始める(監督 谷岡安三郎先生(オトッツアン)ほか)
9月5日 吉田の新校舎に移転、従来の新町校舎を文教場とする
11月28日 同窓会再興第一回大会にて会頭に本庄太一郎校長を推す。
明治32年
(1899)
吉田近衛町
現近衛中学校
4月1日 京都府第一中学と改称、文教場を分校とする
6月28日 本庄校長、府視学官に任ぜられる
7月29日 土屋員安、第5代校長就任
明治42年
(1911)
吉田近衛町
現近衛中学校
8月29日 寄宿舎原因不明の出火
9月 寄宿舎北舎の西部の跡に集会所のような建物ができ、静思館と名付け、図書室を開館、又集会所として利用
明治44年
(1911)
吉田近衛町
現近衛中学校
6月8日 土屋校長休職を命ぜられる
9月28日 森外三郎第6代校長就任
大正4年
(1915)
吉田近衛町
現近衛中学校
12月14日 同窓会は秋季総会を開き、母校との関係を一層親密にするため、会則の一部を改正、母校校長を会頭に推す。森外三郎校長が就任
大正7年
(1918)
吉田近衛町
現近衛中学校
4月1日 京都府立京都第一中学校と改称
(ニ中→京ニ中、三中→福知山中、四中→宮津中、五中→京三中)
大正9年
(1920)
吉田近衛町
現近衛中学校
10月23日 創立50周年祝展を行なう
大正11年
(1922)
吉田近衛町
現近衛中学校
8月28日 森校長、第三高等学校長転任
9月22日 山本安之助第7代校長就任
大正15年
(1926)
吉田近衛町
現近衛中学校
8月 津水泳30周年記念祝賀会にて永年の功労により谷岡先生表彰される
昭和2年
(1927)
吉田近衛町
現近衛中学校
12月1日 下鴨新校舎起工式
昭和3年
(1928)
吉田近衛町
現近衛中学校
7月 夏期休暇に、下鴨の新校舎敷地に全職員・生徒でプールを掘る
昭和4年
(1929)
下鴨梅ノ木町
現洛北高等学校
4月15日~17日 下鴨新校舎移転
5月11日 新校舎落成式
12月 父兄参観
昭和5年
(1930)
下鴨梅ノ木町
現洛北高等学校
10月22日~25日 創立60周年記念式挙行
10月23日 新図書館諄信館開館
昭和9年
(1934)
下鴨梅ノ木町
現洛北高等学校
9月21日 室戸台風襲来、午後授業中止、弓道場全壊
翌年5月に弓道場は復旧、矢渡式
10月 同窓会員も5,000人余りとなり、同窓会誌を学友会誌と分離して発行した。
昭和11年
(1936)
下鴨梅ノ木町
現洛北高等学校
2月25日 本校一筋に48年間奉職された谷岡安三郎先生(オトッツアン)の送別式
5月10日 平安神宮神苑にて谷岡先生惜別謝恩会を行なう、本永七三郎理事長挨拶、山本会長が感謝状を贈呈した。
昭和12年
(1937)
下鴨梅ノ木町
現洛北高等学校
7月10日 山本安之助校長辞任、青柳泰雄第8代校長就任
昭和15年
(1940)
下鴨梅ノ木町
現洛北高等学校
10月20日 創立70周年記念祝賀会 本永七三郎理事長事業経過報告を行なう。青柳泰雄会長が謝辞
昭和16年
(1941)
下鴨梅ノ木町
現洛北高等学校
5月31日 青柳校長、府立女子専門学校に転出、隈部以忠第9代校長就任
昭和18年
(1943)
下鴨梅ノ木町
現洛北高等学校
8月 津浜での観海流水泳(合宿訓練)最終回
10月15日 故谷岡先生同窓会葬
昭和20年
(1945)
下鴨梅ノ木町
現洛北高等学校
5月21日 戦時措置として科学教育特別学級を設置(全国五ヶ所)文部省監督下に京大(湯川秀樹博士ら)の 協力を得て、近府県から成績優秀者を集める
10月27日 創立75周年祝賀式を挙行
昭和21年
(1946)
下鴨梅ノ木町
現洛北高等学校
4月20日 隈部校長辞任、
4月22 龍華行信第10代校長就任
昭和22年
(1947)
下鴨梅ノ木町
現洛北高等学校
10月6日 金井千仭先生ご逝去、明治40年4月から40年間博物、地理を担当、 また同窓会常任理事として母校発展のために尽力
10月 創立77周年祝賀式を行う、京一中最後の祝賀式となる
昭和23年
(1948)
下鴨梅ノ木町
現洛北高等学校
3月31日 龍華行信校長辞任、奥谷久彦第11代校長事務取扱就任
4月1日 6・3・3の学制改革による新制高等学校成立の実施に伴い、京一中77年の歴史を閉じて 京都府立洛北高等学校(第一次)として発足したが、同14日京都市の新制中学校の育成強化に 協力するため、京都府より京都市に貸与され、京都市立洛北中学校の校舎に転用された。 洛北高校は京都府立鴨沂高校(旧府一女)内に移転同居(3,300余人)し、午前(旧府一女、旧嵯峨野女)と 午後(旧府一中)の2部制授業を行なう。併設中学校(新制3年発足)
10月15日 高校再編成、洛北高校閉幕